今週の詩
『忘れがたき人人』
作者・石川啄木

潮《しほ》かをる北の浜辺《はまべ》の
砂山のかの浜薔薇《はまなす》よ
今年も咲けるや

たのみつる年の若さを数《かぞ》へみて
指を見つめて
旅がいやになりき

三度《みたび》ほど
汽車の窓よりながめたる町の名なども
したしかりけり

函館《はこだて》の床屋《とこや》の弟子《でし》を
おもひ出《い》でぬ
耳剃《そ》らせるがこころよかりし

わがあとを追ひ来《き》て
知れる人もなき
辺土《へんど》に住みし母と妻かな

船に酔《ゑ》ひてやさしくなれる
いもうとの眼《め》見ゆ
津軽《つがる》の海を思へば

目を閉《と》ぢて
傷心《しやうしん》の句を誦《ず》してゐし
友の手紙のおどけ悲しも

をさなき時
橋の欄干《らんかん》に糞《くそ》塗《ぬ》りし
話も友はかなしみてしき

おそらくは生涯《しやうがい》妻をむかへじと
わらひし友よ
今もめとらず

あはれかの
眼鏡《めがね》の縁《ふち》をさびしげに光らせてゐし
女教師よ

友われに飯《めし》を与へき
その友に背《そむ》きし我の
性《さが》のかなしさ

函館《はこだて》の青柳町《あをやなぎちやう》こそかなしけれ
友の恋歌《こひうた》
矢ぐるまの花

ふるさとの
麦のかをりを懐《なつ》かしむ
女の眉《まゆ》にこころひかれき

あたらしき洋書の紙の
香《か》をかぎて
一途《いちづ》に金《かね》を欲《ほ》しと思ひしが

しらなみの寄せて騒《さわ》げる
函館の大森浜《おほもりはま》に
思ひしことども

朝な朝な
支那《しな》の俗歌《ぞくか》をうたひ出《い》づる
まくら時計を愛《め》でしかなしみ

漂泊《へうはく》の愁《うれ》ひを叙《じよ》して成《な》らざりし
草稿《さうかう》の字の
読みがたさかな

いくたびか死なむとしては
死なざりし
わが来《こ》しかたのをかしく悲し

函館の臥牛《ぐわぎう》の山《やま》の半腹《はんぷく》の
碑《ひ》の漢詩《からうた》も
なかば忘れぬ

むやむやと
口の中《うち》にてたふとげの事を呟《つぶや》く
乞食《こじき》もありき

とるに足らぬ男と思へと言ふごとく
山に入《い》りにき
神のごとき友

巻煙草《まきたばこ》口にくはへて
浪あらき
磯の夜霧に立ちし女よ

演習のひまにわざわざ
汽車に乗りて
訪《と》ひ来《き》し友とのめる酒かな

大川《おほかは》の水の面《おもて》を見るごとに
郁雨《いくう》よ
君のなやみを思ふ

智慧《ちゑ》とその深き慈悲《じひ》とを
もちあぐみ
為《な》すこともなく友は遊べり

こころざし得《え》ぬ人人の
あつまりて酒のむ場所が
我が家なりしかな

かなしめば高く笑ひき
酒をもて
悶《もん》を解《げ》すといふ年上の友

若くして
数人《すにん》の父となりし友
子なきがごとく酔《ゑ》へばうたひき

さりげなき高き笑ひが
酒とともに
我が腸《はらわた》に沁《し》みにけらしな

あくび噛《か》み
汽車の窓に別れたる
別れが今は物足《ものた》らぬかな

雨に濡れし夜汽車の窓に
映《うつ》りたる
山間《やまあひ》の町のともしびの色

雨つよく降る夜の汽車
たえまなく雫《しづく》流るる
窓硝子《ガラス》かな

真夜中の
倶知安駅《くちあんえき》に下《お》りゆきし
女の鬢《びん》の古き痍《きず》あと

札幌《さつぽろ》に
かの秋われの持てゆきし
しかして今も持てるかなしみ

アカシヤのなみきにポプラに
秋の風
吹くがかなしと日記《にき》に残れり

しんとして幅広き街《まち》の
秋の夜の
玉蜀黍《たうもろこし》の焼くるにほひよ

わが宿の姉と妹《いもと》のいさかひに
初夜《しよや》過ぎゆきし
札幌の雨

石狩《いしかり》の美国《びくに》といへる停車場の
柵《さく》に乾《ほ》してありし
赤き布片《きれ》かな

かなしきは小樽《をたる》の町よ
歌ふことなき人人の
声の荒さよ

泣くがごと首ふるはせて
手の相《さう》を見せよといひし
易者《えきしや》もありき

いささかの銭《ぜに》借《か》りてゆきし
わが友の
後姿《うしろすがた》の肩《かた》の雪かな

世わたりの拙《つたな》きことを
ひそかにも
誇《ほこ》りとしたる我にやはあらぬ

汝《な》が痩《や》せしからだはすべて
謀叛気《むほんぎ》のかたまりなりと
いはれてしこと

かの年のかの新聞の
初雪の記事を書きしは
我なりしかな

椅子《いす》をもて我を撃《う》たむと身構《みがま》へし
かの友の酔《ゑ》ひも
今は醒《さ》めつらむ

負けたるも我にてありき
あらそひの因《もと》も我なりしと
今は思へり

殴《なぐ》らむといふに
殴れとつめよせし
昔の我のいとほしきかな

汝《なれ》三度《みたび》
この咽喉《のど》に剣《けん》を擬《ぎ》したりと
彼《かれ》告別《こくべつ》の辞《じ》に言へりけり

あらそひて
いたく憎《にく》みて別れたる
友をなつかしく思ふ日も来《き》ぬ

あはれかの眉《まゆ》の秀《ひい》でし少年よ
弟《おとうと》と呼べば
はつかに笑《ゑ》みしが

わが妻に着物縫《ぬ》はせし友ありし
冬早く来《く》る
植民地かな

平手《ひらて》もて
吹雪《ふぶき》にぬれし顔を拭《ふ》く
友共産《きようさん》を主義とせりけり

酒のめば鬼《おに》のごとくに青かりし
大いなる顔よ
かなしき顔よ

樺太《からふと》に入《い》りて
新しき宗教を創《はじ》めむといふ
友なりしかな

治《をさ》まれる世の事無《ことな》さに
飽《あ》きたりといひし頃こそ
かなしかりけれ

共同の薬屋開き
儲《まう》けむといふ友なりき
詐欺《さぎ》せしといふ

あをじろき頬《ほほ》に涙を光らせて
死をば語りき
若き商人《あきびと》

子を負《お》ひて
雪の吹き入《い》る停車場に
われ見送りし妻の眉《まゆ》かな

敵として憎みし友と
やや長く手をば握《にぎ》りき
わかれといふに

ゆるぎ出《い》づる汽車の窓より
人《ひと》先《さき》に顔を引きしも
負《ま》けざらむため

みぞれ降る
石狩《いしかり》の野の汽車に読みし
ツルゲエネフの物語かな

わが去れる後《のち》の噂《うはさ》を
おもひやる旅出《たびで》はかなし
死ににゆくごと

わかれ来《き》てふと瞬《またた》けば
ゆくりなく
つめたきものの頬をつたへり

忘れ来《き》し煙草《たばこ》を思ふ
ゆけどゆけど
山なほ遠き雪の野の汽車

うす紅《あか》く雪に流れて
入日影《いりひかげ》
曠野《あらの》の汽車の窓を照《てら》せり

腹すこし痛《いた》み出《い》でしを
しのびつつ
長路《ちやうろ》の汽車にのむ煙草《たばこ》かな

乗合《のりあひ》の砲兵士官《はうへいしくわん》の
剣の鞘《さや》
がちやりと鳴るに思ひやぶれき

名のみ知りて縁もゆかりもなき土地の
宿屋安けし
我が家《いへ》のごと

伴《つれ》なりしかの代議士の
口あける青き寐顔《ねがほ》を
かなしと思ひき

今夜こそ思ふ存分《ぞんぶん》泣いてみむと
泊《とま》りし宿屋の
茶のぬるさかな

水蒸気
列車の窓に花のごと凍《い》てしを染《そ》むる
あかつきの色

ごおと鳴る凩《こがらし》のあと
乾《かわ》きたる雪舞ひ立ちて
林を包《つつ》めり

空知川《そらちがは》雪に埋《うも》れて
鳥も見えず
岸辺《きしべ》の林に人ひとりゐき

寂莫《せきばく》を敵とし友とし
雪のなかに
長き一生を送る人もあり

いたく汽車に疲れて猶《なほ》も
きれぎれに思ふは
我のいとしさなりき

うたふごと駅の名呼びし
柔和《にうわ》なる
若き駅夫《えきふ》の眼をも忘れず

雪のなか
処処《しよしよ》に屋根見えて
煙突《えんとつ》の煙《けむり》うすくも空にまよへり

遠くより
笛《ふえ》ながながとひびかせて
汽車今とある森林に入《い》る

何事も思ふことなく
日一日《ひいちにち》
汽車のひびきに心まかせぬ

さいはての駅に下《お》り立ち
雪あかり
さびしき町にあゆみ入《い》りにき

しらしらと氷かがやき
千鳥なく
釧路《くしろ》の海の冬の月かな

こほりたるインクの罎《びん》を
火に翳《かざ》し
涙ながれぬともしびの下《もと》

顔とこゑ
それのみ昔に変らざる友にも会ひき
国の果《はて》にて

あはれかの国のはてにて
酒のみき
かなしみの滓《をり》を啜《すす》るごとくに

酒のめば悲しみ一時に湧《わ》き来《く》るを
寐《ね》て夢みぬを
うれしとはせし

出《だ》しぬけの女の笑ひ
身に沁《し》みき
厨《くりや》に酒の凍《こほ》る真夜中

わが酔《ゑ》ひに心いためて
うたはざる女ありしが
いかになれるや

小奴《こやつこ》といひし女の
やはらかき
耳朶《みみたぼ》なども忘れがたかり

よりそひて
深夜《しんや》の雪の中に立つ
女の右手《めて》のあたたかさかな

死にたくはないかと言へば
これ見よと
咽喉《のんど》の痍《きず》を見せし女かな

芸事《げいごと》も顔も
かれより優《すぐ》れたる
女あしざまに我を言へりとか

舞《ま》へといへば立ちて舞ひにき
おのづから
悪酒《あくしゆ》の酔《ゑ》ひにたふるるまでも

死ぬばかり我が酔《ゑ》ふをまちて
いろいろの
かなしきことを囁《ささや》きし人

いかにせしと言へば
あをじろき酔《ゑ》ひざめの
面《おもて》に強《し》ひて笑《ゑ》みをつくりき

かなしきは
かの白玉《しらたま》のごとくなる腕に残せし
キスの痕《あと》かな

酔《ゑ》ひてわがうつむく時も
水ほしと眼《め》ひらく時も
呼びし名なりけり

火をしたふ虫のごとくに
ともしびの明るき家《いへ》に
かよひ慣《な》れにき

きしきしと寒さに踏めば板《いた》軋《きし》む
かへりの廊下の
不意のくちづけ

その膝《ひざ》に枕《まくら》しつつも
我がこころ
思ひしはみな我のことなり

さらさらと氷の屑《くづ》が
波に鳴る
磯の月夜のゆきかへりかな

死にしとかこのごろ聞きぬ
恋がたき
才《さい》あまりある男なりしが

十年《ととせ》まへに作りしといふ漢詩《からうた》を
酔《ゑ》へば唱《とな》へき
旅に老《お》いし友

吸ふごとに
鼻がぴたりと凍《こほ》りつく
寒き空気を吸ひたくなりぬ

波もなき二月の湾《わん》に
白塗《しろぬり》の
外国船が低く浮かべり

三味線《さみせん》の絃《いと》のきれしを
火事のごと騒ぐ子ありき
大雪の夜《よ》に

神のごと
遠く姿をあらはせる
阿寒《あかん》の山の雪のあけぼの

郷里《くに》にゐて
身投げせしことありといふ
女の三味《さみ》にうたへるゆふべ

葡萄色《えびいろ》の
古き手帳にのこりたる
かの会合《あひびき》の時と処《ところ》かな

よごれたる足袋《たび》穿《は》く時の
気味《きみ》わるき思ひに似たる
思出《おもひで》もあり

わが室《へや》に女泣きしを
小説のなかの事かと
おもひ出《い》づる日

浪淘沙《らうたうさ》
ながくも声をふるはせて
うたふがごとき旅なりしかな


   二

いつなりけむ
夢にふと聴《き》きてうれしかりし
その声もあはれ長く聴かざり

頬《ほ》の寒き
流離《りうり》の旅の人として
路《みち》問ふほどのこと言ひしのみ

さりげなく言ひし言葉は
さりげなく君も聴きつらむ
それだけのこと

ひややかに清き大理石《なめいし》に
春の日の静かに照るは
かかる思ひならむ

世の中の明るさのみを吸ふごとき
黒き瞳《ひとみ》の
今も目にあり

かの時に言ひそびれたる
大切の言葉は今も
胸にのこれど

真白《ましろ》なるラムプの笠《かさ》の
瑕《きず》のごと
流離の記憶消しがたきかな

函館《はこだて》のかの焼跡《やけあと》を去りし夜《よ》の
こころ残りを
今も残しつ

人がいふ
鬢《びん》のほつれのめでたさを
物書く時の君に見たりし

馬鈴薯《ばれいしよ》の花咲く頃と
なれりけり
君もこの花を好きたまふらむ

山の子の
山を思ふがごとくにも
かなしき時は君を思へり

忘れをれば
ひよつとした事が思ひ出の種《たね》にまたなる
忘れかねつも

病《や》むと聞き
癒《い》えしと聞きて
四百里《しひやくり》のこなたに我はうつつなかりし

君に似し姿を街《まち》に見る時の
こころ躍《をど》りを
あはれと思へ

かの声を最一度《もいちど》聴かば
すつきりと
胸や霽《は》れむと今朝《けさ》も思へる

いそがしき生活《くらし》のなかの
時折《ときおり》のこの物おもひ
誰《たれ》のためぞも

しみじみと
物うち語る友もあれ
君のことなど語り出《い》でなむ

死ぬまでに一度会はむと
言ひやらば
君もかすかにうなづくらむか

時として
君を思へば
安かりし心にはかに騒ぐかなしさ

わかれ来《き》て年《とし》を重ねて
年ごとに恋しくなれる
君にしあるかな

石狩《いしかり》の都《みやこ》の外の
君が家
林檎《りんご》の花の散りてやあらむ

長き文《ふみ》
三年《みとせ》のうちに三度《みたび》来《き》ぬ
我の書きしは四度《よたび》にかあらむ





もしも美しいまつげの下に、涙がふくらみたまるならば、
 それがあふれでないように、強い勇気をもってこらえよ。 
 ―byベートーベン



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